日々をともに過ごした器が語るもの
工房でひとつずつ丁寧に作られたうつわには、使う人の暮らしと、作り手の温度とが不思議と重なり合っているように感じます。手に持ったときのざらつきや、ゆるやかな歪み。釉薬の流れや高台の削り跡には、見た目以上の気配が宿っています。量産品では得られない、心のどこかがじんわりと温まるような感覚。私もそんな手仕事の器を少しずつ集めながら、日々の食卓に使ってきました。
気に入って使い続けてきたひと皿がありました。粉引の中皿で、釉のかかり方が柔らかく、どんな料理でも不思議と受け止めてくれる器でした。朝のトースト、夕飯の煮物、おやつのケーキ。10年以上、毎日のように使ってきたのに、どんな瞬間もそっと寄り添ってくれるような存在で、ふとした折に「これ、もう家族の一員みたいだな」と思うこともありました。
ですが、家族の人数や暮らし方が変わってくると、使う器にも少しずつ変化が出てきます。食卓の並び方も、求めるサイズや数も違ってくる。そんなとき、この器を「しまう」よりも「誰かに託す」ことを考えるようになりました。
器が新しい時間を生きるということ
器を譲る相手として思い浮かんだのは、以前から器好きだと話していた友人でした。料理が得意で、丁寧に盛りつけるその人の手元にこの器が並ぶ姿を想像したとき、「あの器、あの人のもとで新しい日々を生きられるかもしれない」と思えたのです。
手渡す前には、ささやかながらも器の表面を拭き、裏面の少し黒ずんだ部分をスポンジで優しく磨きました。ひびが入っているわけでもない、欠けがあるわけでもない。でも、自分なりに感謝を込めて整えるという時間は、どこか送り出す儀式のようにも思えました。
渡したあと、友人から「この器で、朝のサラダを出したらなんだか気分がいいの」と連絡が届きました。嬉しかったのは、器を褒めてもらえたことよりも、それが彼女の暮らしの一部になっていたということ。その感覚こそが、器を次の食卓に託すという意味なのだと思いました。
うつわは、手元で使い続けることだけが愛情ではありません。大切にしてきた器だからこそ、誰かの生活のなかでまた活き活きと使われていく。そこに小さな循環が生まれたようで、私はとても満たされた気持ちになります。
手放すときこそ、静かな喜びを
モノにはそれぞれ役割と居場所があり、器もまた、その時々の食卓に寄り添う形で存在しています。でも、ずっと同じ場所に置いておくことが、必ずしもその器の幸せとは限りません。使われずに棚の奥に眠ってしまうなら、思い切って送り出すという選択も、モノへの敬意のひとつではないでしょうか。
ただの片づけや整理ではなく、「託す」という視点で手放すと、不思議と気持ちに余白が生まれます。寂しさもあるけれど、それよりも、モノに宿る記憶を他の誰かが引き継いでくれるという嬉しさの方が強く残るのです。
器は使われてこそ器であり、人と一緒に時間を重ねてこそ、初めて道具としての本質を持つのかもしれません。そして、その歩みが誰かに受け継がれていくことで、モノは新しい物語を生き始めるのです。
大切にしてきた器を、信頼できる誰かに託す。暮らしの一部として寄り添ってきたものだからこそ、手放すときこそ美しく。そんな姿勢を、これからも心に留めていたいと思っています。