くすみの奥に眠る、本来の色
真鍮のスプーンは、不思議な魅力をもった道具です。ぴかぴかに磨き上げられたときの黄金色の輝きも美しいけれど、少し使い込まれてくすみが出てきたころの表情もまた味わいがあります。私は以前、旅先のクラフト市で出会った小さな真鍮スプーンにひと目惚れし、自宅のコーヒーコーナーで使い続けてきました。
ところが数年が経つと、全体がくすみ、黒ずみも出てきました。手にするたびに少しざらついた印象があり、どこか手放しそうな予感さえ漂い始めていたのです。けれど、ある日ふと思い立ち、そのスプーンを磨いてみようと思いました。たったひとつの道具に、もう一度手をかけてみることで、失いかけていた関係性を取り戻したい、そんな気持ちでした。
指先から伝わる、時間と手ざわりの変化
真鍮の磨き方は、難しいものではありません。重曹やクエン酸、研磨用のクロスなどを使えば、家庭にある道具だけでも十分に手入れができます。私は最初に、お湯に少量のクエン酸を溶かした液にしばらく浸け、汚れを浮かせてから、柔らかいクロスで優しく磨き始めました。
驚いたのは、その変化の早さと確かさでした。力を入れすぎずに撫でるように動かしていくだけで、くすんでいた表面から徐々に光が戻ってきます。布の繊維が金属と触れるたび、音にはならないような微細な摩擦が、どこか心地よく感じられました。目に見えて変化していく様子に、私はすっかり夢中になっていたのです。
磨き終えたスプーンは、買ったときよりも柔らかく、落ち着いた輝きをまとっていました。光ってはいるけれど、ぎらつくことはない。その表情には、自分の手が加わったという確かな温もりが宿っているようでした。使い込まれ、少し休み、そして再び目覚めたような印象でした。
蘇らせるという営みがくれるもの
磨くという行為は、単にモノをきれいにすることだけではないと感じます。それは、関係を見直すことでもあり、自分自身の手と向き合う静かな時間でもあります。日々のなかでつい見過ごしてしまっていた道具の表情や、触れたときの感触を丁寧に確かめる時間。その工程にこそ、手仕事の本質があるような気がしています。
最近では、同じように眠っていた真鍮のフォークやキャンドル立ても磨き直してみました。どれも少しずつ色が違い、それぞれに違う時間の跡が残っていました。それをひとつずつ整えていく作業は、どこか祈るようでもあり、自分の暮らしをもう一度見つめ直すきっかけにもなりました。
真鍮は、使えば使うほど表情を変える素材です。だからこそ、磨くたびにその人らしさが反映されていきます。整いすぎていない不揃いの光や、あえて残した部分の味わいすべてが、その人とモノとの関係性の証になるのです。
手磨きで蘇る真鍮の道具たち。それは再生というより、むしろ再会に近い感覚かもしれません。手をかけた分だけ、暮らしのなかでの存在感が増していく。そんな感覚を教えてくれたこのスプーンは、今も私の朝のコーヒータイムを、静かに、けれど確かに照らしてくれています。