木のスプーンが、朝の静けさを教えてくれた
朝食の時間が、いつからか特別なものになったのは、ある木のスプーンとの出会いからでした。鎌倉の小さなクラフトフェアで出会ったそのスプーンは、丸く削られたやわらかなフォルムと、すっと伸びた持ち手が特徴的で、どこか人の指に似たようなあたたかみを感じさせるものでした。
手にした瞬間、まるでずっと前から知っていたような感覚がありました。表面は丁寧に磨かれているけれど、彫り跡がほんのり残っていて、作り手の指先が通った道筋がそのまま残っているようでした。機械で量産されたものとは違う、目に見えない気配のようなものが、そのスプーンには宿っていたのです。
それからというもの、私は毎朝そのスプーンでヨーグルトをすくい、コーヒーをひとくち味わうのが日課になりました。たったひとつの道具を変えるだけで、朝の時間がこんなにも違って感じられるなんて。そんな発見は、日々の忙しさに追われがちな私にとって、小さな革命のようでもありました。
使うたびに深まっていく道具との関係
木のカトラリーは使い込むほどに色が濃くなり、艶が増していきます。ときには少し乾いてきたなと感じたら、布にオイルを含ませて軽く磨いてやる。その手間すらも、暮らしのリズムに寄り添っているような心地よさがありました。
ひとつの道具を育てるように使うという体験は、それまでの「便利であればいい」という感覚を静かに揺るがすものでした。プラスチックのスプーンやステンレスのカトラリーにも役割はあるけれど、そこには共に時間を過ごすという感覚はなかなか芽生えません。けれど手彫りの道具には、ほんの少しの傷さえも味わいとして積み重なっていく豊かさがありました。
不思議なことに、そのスプーンを使っているときは、朝の時間の流れ方まで変わって感じられました。焦って口に運ぶこともなくなり、自然とひとくちごとに味わうようになったのです。器に触れるカチャリという音も柔らかく、朝の静けさにやさしく馴染んでいきました。きっとその音の向こうには、木を削る作家の呼吸も、どこかに重なっているのでしょう。
日常の中に潜むアートとの出会い
アートとは、何も大きな作品や高価なものだけではないと思います。暮らしのなかに自然と存在するもの、日々の営みに溶け込んでいるもの。そんな手の届く美しさこそが、私にとってはもっとも心を動かされるアートです。
手彫りのカトラリーもそのひとつでした。毎日使うからこそ、その存在が確かな感覚となって生活に根を張っていく。使っているうちに、どこを握るとしっくりくるのか、どの料理に向いているのかがわかってくる。そうやって、道具と自分の関係が少しずつ築かれていく過程は、どこか人との関係づくりにも似ているように思えました。
そして、そうした道具はたいてい「どこで買ったか」よりも、「どう使ってきたか」の方が記憶に残ります。クラフトフェアで作家と話したこと、木の種類を選んだときの迷い、初めて使った日の朝食の味。それらが重なって、そのスプーンは私にとってただの道具ではなくなったのです。
何気ない朝のひとときに、そんな感覚がそっと添えられていること。それが私にとって、アートとともに暮らすということの、本当の意味なのかもしれません。