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飾るではなく共に住まうアートとの関係づくり

アート

アートがあるだけで、空間の呼吸が変わる

引っ越しをしたとき、真っ白な壁を前に少しだけ戸惑ったことを覚えています。何を飾るか、どこに置くか。家具や照明を決めるよりも、ずっと難しく感じたのは、「この部屋の空気に何を添えるか」という問いだったのかもしれません。

そのとき手にしたのは、小さな抽象画でした。鎌倉のギャラリーで出会った作品で、黒と青が重なり合った、海の底を思わせるような色合いの一枚。大きな主張をするわけでもなく、けれど何度も目を留めてしまうような、静かに語りかけてくる存在でした。

壁にかけて数日経つころ、部屋の空気がやわらかくなったように感じました。朝の光が絵に触れるとき、夜の灯りがその奥行きを浮かび上がらせるとき。その変化に気づくたび、「この空間に住まうのは私だけじゃないんだ」と思うようになったのです。

主役ではなく、暮らしの呼吸を整える存在

アートを「飾る」と考えると、どこか構えてしまいます。どの作家が描いたか、価値はどうか、部屋との調和は取れているか。でも本当に大切なのは、作品とどんな距離で付き合うか、どんな気持ちで向き合うかだと思います。

私が大切にしているもう一枚は、知人が描いた山の水彩画です。額に入れず、軽くクリップでとめて壁に吊るしているだけ。ときどき風に揺れて、少し傾いていたりします。けれど、それも含めてその作品はこの部屋に馴染んでいて、決して「飾られている」という印象はありません。

アートが共にあるという感覚は、日々の何気ない瞬間に訪れます。食事の合間にふと視線を向けたとき、気分が沈んだ夜に見上げたとき。アートが特別なものではなく、「暮らしのどこかに佇むもの」になったとき、住まいそのものが少しずつ変わっていくように感じるのです。

ものとの距離感が暮らしの質を変えていく

空間にアートを置くのではなく、住まわせるという感覚。そこには、決まりきった配置も、正解もありません。そのときの気分で場所を変えてもいいし、季節によって作品を入れ替えてもいい。まるで植物を置くように、生活の一部として関係を育てていくことができるのです。

私は最近、絵だけでなく小さな陶芸作品や木のオブジェも、アートとして部屋に迎え入れています。どれも高価なものではありませんが、手のあとが残るものたちがそっとそこにあるだけで、空間にひとつ深い呼吸が生まれるように感じています。

暮らしの中にアートを取り入れるということは、「自分にとっての美しさ」と対話する時間をつくることだと思います。それは、装飾や演出とは少し違った、内側から立ち上がる豊かさです。

ただ飾るのではなく、共に住まう。作品と同じ空気を吸いながら暮らすこと。それこそが、日々を少しだけ心地よく整えてくれるアートとの関係だと感じています。