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遺品整理を通じて見つけた託すというケアの形

遺品

思い出に触れながら手を動かす時間

遺品整理という言葉には、少し硬さと重さがあります。でも実際にその場に立ち会ってみると、そこにあるのは「もの」と向き合うというよりも、「人」と向き合うような時間でした。私が祖母の家を整理することになったのは、亡くなって半年ほど経った春のことでした。

押し入れの奥から出てきた古い反物や和紙に包まれた陶器、使い込まれたまな板や、何十年と使い続けた裁縫箱。それらをひとつひとつ手に取るたびに、祖母の手の動きや暮らしぶりがふわっと蘇ってきました。何気ない小物にも「これを使っていたな」「この色が好きだったな」と、記憶の断片が心の奥をくすぐるようでした。

そのとき私が感じていたのは、「捨てる」ことへのためらい以上に、「どう託すか」を考えることの大切さでした。これは本当に要らないものだろうか。誰かに使ってもらえるかもしれない。そうやって、物の行き先を決めることが、自分なりの弔いであり、ケアの一環なのだと気づいていきました。

人の想いが残る生活のかけら

中でも忘れられないのは、古びたけれどしっかり磨かれた木のしゃもじでした。祖母の料理を思い出すその道具を手に取ったとき、何とも言えない温度がありました。形見分けの対象になるような高価なものではありません。でも、それがあの人の暮らしを語ってくれる何よりの証でした。

親戚のひとりがそれを手に取って、「これ、使ってもいい?」と自然に聞いてきたとき、私は思わず頷いていました。使ってもらえる、誰かの台所に置かれる。そう思ったとき、そのしゃもじがまた新しい物語を刻み始めるような気がしたのです。

物の価値は、金額だけでは測れません。ましてや遺品となると、その背景には人生の時間が詰まっています。誰かの手を離れたものが、また誰かの手に渡ること。それは、モノにとっても、人にとっても、静かで温かな再生なのだと思います。

託すことで心が少し軽くなる

整理という行為は、片づけるためだけのものではありませんでした。手放すことを通じて、気持ちに区切りをつけたり、自分なりの別れ方を見つけることができたのです。それは思い出を否定するのではなく、丁寧に包み直して次に渡す作業のようでもありました。

祖母が大切にしていたものを、信頼できる人や場所に託すこと。それは、その人の暮らしを尊重することであり、自分自身への癒しでもありました。誰かにとってはただの道具かもしれない。でも、自分にとって意味があると感じたその気持ちに丁寧に寄り添うことで、モノに込められた想いもきっと報われるのだと思います。

今も我が家には、祖母の器がいくつか並んでいます。使うたびに思い出すその人の姿や声は、決して過去のものではなく、今の暮らしの中で静かに息づいています。そしてその器たちも、いつかはまた誰かに託されて、新しい時間を生きていくのかもしれません。